葛城 隆雄(かつらぎ たかお、1936年12月21日 - 2013年7月27日)は、大分県大分市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。
経歴
プロ入りまで
大分上野丘高校では2年生の時、1953年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東九州大会準決勝に進むが、佐伯鶴城高に敗れ甲子園出場はならなかった。高校の1年上に太田文高がいた。
現役時代
1955年、別当薫監督率いる毎日オリオンズに入団。高卒新人ながら活躍を見せた。
1956年にはレギュラー遊撃手となり、規定打席(22位、打率.250)にも到達。
1957年は三塁手に回り、リーグ3位の91打点を記録した。
1958年は遊撃手に戻るが、1打点差で中西太(西鉄)の三冠王を阻み、打点王を獲得。シーズン最終戦の最終打席で本塁打を打っての単独打点王確定であった。同年はリーグ3位の打率.305、リーグ3位の20本塁打も記録した。
1959年からは三塁手に定着し、さらに打撃が向上。シーズン終盤まで3冠王を狙える位置にいた。結果、リーグ3位の打率.310、95打点で2年連続の打点王に輝く。本塁打は同僚の山内一弘に1本及ばずの24本でリーグ2位となった。
1960年のリーグ優勝に貢献、大洋ホエールズとの日本シリーズでは4連敗を喫するが、16打数4安打2打点の記録を残す。
1961年はリーグ4位の85打点を記録。
1962年にはリーグ3位の打率.333を記録。1962年は宇野光雄監督の意向で、矢頭高雄とポジションを交換し右翼手に回る。
1963年は三塁手に戻った。
1956年に51失策、1957年に38失策、1958年に42失策と、3年連続で“失策王”になるなど守備面での粗さはあったものの、勝負強いバッティングで頭角を現し、2番・田宮謙次郎、3番・榎本喜八、4番・山内一弘とともに5番打者として「ミサイル打線」の一翼を担った。ボールをじっくりと選ぶ山内・榎本と違い、初球からでも積極的に打ちにいった。そのためか、同程度の成績を残した選手たちと比較して、四球が少ない。また、同郷の稲尾和久に滅法強いことでも知られた。当時の西鉄監督の三原脩は、葛城に打順が回ると稲尾を一塁か外野に引っ込め、次の打者でまたマウンドに戻すという奇策を用いたほどである。
1964年に前田益穂との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。中日では強肩を活かし主に右翼手として起用された。
1965年には12補殺を記録するなど守備面でも貢献した。江藤慎一、ジム・マーシャルとクリーンアップを組んでいた。
1966年には江藤の故障もあって29試合で四番打者をつとめた。
1968年は打率.291(リーグ8位)を記録し、同年まで定位置を守る。
1969年には江島巧らが台頭、主に一塁手として起用されるが出場機会は減少した。
1970年、代打の切り札として阪神タイガースに移籍するも、同年5月19日にオートレースの八百長容疑で逮捕される(黒い霧事件)。6月18日、阪神は出場停止3ヶ月の処分を下し、そのままシーズン終了後に自由契約にて退団となり、現役を引退した。
引退後
引退後はオリオンズ時代の先輩である田宮が経営する自動車修理会社に勤務した。
2013年7月27日、76歳で死去した。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更
タイトル
- 打点王:2回 (1958年、1959年)
- 最多安打:2回(1958年、1959年)※当時連盟表彰なし
表彰
- ベストナイン:2回 (1958年、1959年)
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1963年6月23日 ※史上81人目
- その他の記録
- 最多安打(当時連盟表彰なし):2回 (1958年、1959年) ※1994年より表彰
- サイクル安打:1回 (1957年8月27日、対南海ホークス戦、大阪球場) ※史上15人目
- 20歳8ヶ月での達成は史上最年少での記録であるが、サイクル安打自体が認知されたのが1965年であり、そこから遡って調べて達成を認定されたため、葛城の記録について語られることは少ない。
- オールスターゲーム出場:5回 (1957年 - 1960年、1962年)
背番号
- 31 (1955年)
- 5 (1956年 - 1970年)
脚注
関連項目
- 大分県出身の人物一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 葛城隆雄 - NPB.jp 日本野球機構




