大森 智辯(おおもり ちべん、本名:大森 清子、旧姓:吉井、1909年(明治42年)4月1日 - 1967年(昭和42年)2月15日)は、日本の宗教家。辯天宗教祖。奈良県吉野町出身。
生涯
奈良県吉野村(現在の吉野町)において、村会議員を務める吉井重吉の長女として生まれた。父の事業失敗のため13歳で紡績女工となり、1928年(昭和3年)に上市町(現在の吉野町)の大師堂堂守である大森智祥と結婚。1929年(昭和4年)に夫は養父の死により五條市の十輪寺住職を継いだ。
1934年(昭和9年)に大辯才天女尊より天啓を受け、十輪寺内に弁才天を祀った。1939年(昭和14年)に加持祈禱師の資格を取得したが治安維持法違反容疑などで2度にわたり留置される。その後、1948年(昭和23年)には夫の大森智祥が第一世管長となって辯天講を結成し、1952年(昭和27年)に辯天宗を立宗し智辯が宗祖となる。
1965年(昭和40年)に智辯学園高等学校(現在の智辯学園中学校・高等学校)を開校。同年に高野山真言宗「高野山開創1150年記念大法会」の導師を第一世管長智祥、副導師を宗祖である智辯が勤めた。
1967年(昭和42年)2月15日、死去。享年57。墓所は奈良県五條市の辯天宗蓬萊山御廟。
脚注




