滕 芳蘭(とう ほうらん)は、三国時代の呉の孫晧の皇后。青州北海国劇県の人。父は滕牧。滕胤の族子にあたる。

経歴

太平2年(257年)、呂拠と滕胤は共に挙兵して孫綝を討とうとしたが、孫綝の派遣した大軍の前に敗北し、滕胤は誅滅された。

父は滕胤の遠祖であったため、辺境の地に流されたという。しかし永安元年(258年)、父は孫休の即位による大赦で帰還する事ができ、五官中郎に任命された。孫晧は烏程侯に封じられると、芳蘭を妃(正室)とした。

元興元年(264年)7月、孫晧は即位すると、10月に芳蘭を皇后に立て、さらに滕牧を高密侯に封じた上で、衛将軍・録尚書事に任命した。しかし朝臣たちは孫晧の暴虐が極まると、滕牧が外戚であったことから、幾度も滕牧を推し立てて孫晧に諌めの意見を言上させた。その頃、既に孫晧の芳蘭に対する寵愛が冷めかかっていたため、孫晧はますます機嫌を悪くした。それが積み重なったため、ついに滕牧は宮廷を追われて蒼梧郡に強制移住させられた。爵位こそ奪われなかったものの、島流しに近い状態であったため、滕牧は蒼梧郡に移住する途中で憂いのあまり死去した。

孫晧は芳蘭の廃后を考えたが、皇后を替えるのは良くないという占が出、また何太后が諌めたので取りやめた。芳蘭は感謝し何太后への拝礼を欠かさなかった。長秋宮(滕皇后の宮)の官僚はただ員数が備わっているだけであり、孫晧は次々と他の女性を寵愛し、勝手に皇后の印綬を佩く夫人の数が夥しかった。

建衡3年(271年)春正月、孫晧が華里(建業の西)まで進んだ際に何太后と妃嬪たちと共に付き添った(『江表伝』)。

太康元年(280年)、呉の滅亡に伴い孫晧に従って洛陽に遷った。

太康5年(284年)12月、孫晧が洛陽で死去した。42歳であった。河南郡の北邙山に葬られた(『呉録』)。芳蘭は非常に悲しい哀愁が漂う哀悼文を、孫晧のために記したという(『建康実録』)。その後、洛陽で死去した。

参考文献

  • 『正史三国志6 呉書I』 陳寿、裴松之注、小南一郎訳、ちくま学芸文庫

脚注


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